大西良慶(元清水寺貫主)の本より
 人間の手ほど面白いものはない。
手には表情がある。人生がある。若い人の手には若さがあふれており、老人には老人の
苦渋がある。顔の表情のように目まぐるしく変わりはしないが、それだけにじみ出る味
がある。
 しかも手は”もの”をいう。人間の身体のなかで、手ほど意志をたくみに表現するも
のはない。~
 ~仏法では、右手を慈悲、左手を智慧といっているところがある。手を単なる肉体の
道具としてでなく、霊的な働きをもとめたのではないか。
 旧いところで言うと、お釈迦さんの生誕がそうやった。お釈迦さんは、生まれおちる
なり、七歩歩まれて「天上天下唯我独尊」といわれたという。ただ、そう言われただけ
ではない右の手の人差し指で天を指し、左の手で地をさしている。天と地をさしている
。ここに意味がある。天にも地にも、我ひとり尊しと言われた宣言の意味がある。~~
~信心の手は善になる。不信心の手は悪になるの。
 ~~
 相手の心を聞く。---合掌の心は、やがて自分への合掌になる。向こう向いての、
合掌やなしに無事に今日あるが有り難い、父母が有り難い……この社会の恩を自覚し
たら合掌の世界になる。心の合掌いうたら;姿のないのが心やからね。手をあわせずと
も、合掌の心になったら、有り難いという思いになる。この思いがゆき届いたら、人間
の世界は極楽になる。そのままが極楽やの。

 {合掌の心は敬愛、信頼、感謝、仏教で言えば念ずる心、頼む倍、願う場合が合掌}


 こういっておられます。手と言うと一番に思いだすのが、島崎藤村の詩です。
 今の場合に合いませんね。でも 好きな詩なのです。わたしも その昔このようでした。
よく手を眺め「ふうー」とため息したものでした。このとき合掌すると良かったのですね。
今はなんでもかんでも、合掌の心で合掌しています。そして「極楽じゃ、極楽じゃ」と、ひ
とりごとです。「有り難い。極楽じゃ。幸せ」さあ、わたしが好きなお話しを、ここに記します。若い頃読んで記憶に
残った話しをこうしてブログにのせたいと思うのですが、もう 見事なる
お年のわたしです。頭に入っていても、なかなか書けない、しっかり愚か
者なのです。本を探してちゃんと書きたいと思うのです。
 「四知」も丁寧に書いたらいい話しですのよ。楽しいし考えてしまいま
す。
 「あなたが知っているでしょう。わたしも知っています」だって!?

  
    本はすべて二種類に分かれる。一刻の本と生涯の本に。
                      ジョン?ラスキン


  公方俊良著より
 中国唐代の官僚であり、詩人であった白居易は帰依し、禅師の弟子になり、
ある日、鳥窠道林の寺で座禅していたとき、道林に尋ねました。
「仏の大意とはどういうものでしょうか」
「諸悪作すことなく、衆善を行うことである」(悪いことはせず善いことをする)
「そんなことなら、三歳の子供でも知っています」
「たとえ三歳の子供が知りえても、八十歳の老翁でも実行することは難しい」
道林がこのようにいうと、白居易は深くうなずき礼拝して去って行ったといい
ます。
 仏教が目指す生き方の三本柱は、慈悲と智慧と清浄です。自分のことよりも
相手のことを思う、思い遣りと優しさを持つて、お互いを支えあって生きよう
ということです。~~~

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